2004年3月19日金曜日

山村暮鳥

般、詩人志望のクリスチャン青年から手紙を貰った。書面には、詩人の山村暮鳥について、幾つかの質問が箇条書きにされていた。

その中の一つに、暮鳥の『風景』という有名な詩についての質問があった。差出人の青年は、一体、この詩のどこが優れているのかと、首を傾げているらしい。

暮鳥は、生前に何冊かの詩集を刊行しているが、大正4年(1915)に発表した第二詩集、『聖三稜玻璃』(せいさんりょうはり)に『風景/純銀もざいく』は収録されている。

私は、暮鳥の作品について、然程、明るい方ではない。手許にある暮鳥に関連する文献でさえ、『日本の詩歌/13』(中公文庫)一冊のみである。


ともあれ、『風景』という詩を鑑賞してみたい。








風景 -純銀もざいく-

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな







 ひたすらに「いちめんのなのはな」を連ねながら、状況が更に鮮明に浮かび上がるように、それぞれの連で、一行の写実が挿入されている。この技巧は単なる風景の描出ではなく、最後の連で作者の心情を印象付けるための配慮となっている。

客観的に眺めた、長閑な一面の菜の花畑が目の前に広がっている。そして空には「やめるはひるのつき」がある。この、病める昼の月なのであるが、実は隠喩であって、傷心の暮鳥自身のことを示している。

この、麗かな風景と病み疲れた暮鳥との対比を、「いちめんのなのはな」は、小波のように連なって詩全体を表白する。そして、暮鳥の病める魂を無窮の陽春の中に閉じ込めてしまったのだ。

山村暮鳥は貧しい家庭に育ち、明治35年(1902)、19歳の時に受洗している。翌年には神学校に入学して、卒業後はカソリックの伝道師となって活躍している。けれども病身ゆえに、41歳の折に、急性腸炎をおこして永眠した。

私は暮鳥の『いのり』と題した詩が好きだ。







いのり

つりばりぞそらよりたれつ
まぼろしのこがねのうをら
さみしさに
さみしさに
そのはりをのみ







解説は不要であると思うが、信仰者とはいえ、神の釣り針に喰らいつきたくなるような、やりきれない蕭条感が、色濃く描かれている。

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